仁徳天皇陵古墳の思い出

 いうまでもなく、世界遺産に登録されることになった、百舌鳥、古市古墳郡の中の最大のものが標記、天皇陵であります。
 その本来の考古学的価値とは異なり、私には今に忘れぬ思い出があります。
 時に堺市立向陽小学校(戦災のため廃校となり跡地は駐車場)五年生であった私は、天皇陵構築のため勤労奉仕をする少年団の物語が、時の大阪中央放送局から放送されることとなり、その出演者の一人に選ばれました。
 脚本読みの段階で最も苦痛を強いられたのは、関西弁を標準語に換えられることでした。我々のアクセントは時の放送局ではその市民権を得ていなかったのでしょう。苦斗三ケ月、いよいよ放送の日が訪れました。時は、昭和十四年、大阪は天神祭の日、午後六時から三十分間のラヂオ・ドラマは思い出深いものとなりました。たゞ話の内容は憶えておりません。民のかまどの煙を遠望して世の平安に心安らいだ仁徳帝の御徳を慕うものであったことは間違いありません。
 時に洋裁業を生業としていた母は、この日のために麻地の洋服を作ってくれました。苦斗三ケ月の報償は、「大阪中央放送局
JOBK」と刻字された鉛筆一ダース。それでも私には宝物でした。
 帰途、祭に賑わう街の活気は、当の放送を讃えてくれているように思われました。
 後年、NHK、ETVやラヂオを通じて「こゝろの時代」に出させてもらう得難い機会を得ることができましたが、あの初々しいドラマ出演の感動には及びません。かねて、放送界に大活躍の大阪弁を今更の如く心強く思っています。




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