松尾寺名誉住職米寿祝賀会

 平成二十七年十一月二十九日、心空師の八十七回目の誕生日を期して、舞鶴市のホテルマーレで開催されました。
 元KBSアナウンサー・武部宏氏の司会で、河田友宏発起人代表(元商工会議所会頭)の開会の辞に始まり、多々見市長、学界の長老方(写真)の祝辞の後、当人の謝辞(記載)、そして海上自衛隊舞鶴地方総監、堂下哲郎氏の乾盃をもって宴が始められました。
 高石ともや氏のフォークソングに会は一層和み、更には同氏の曲の音に合わせて、西国徒歩巡礼アリの会々歌、「琵琶湖周航歌」の大合唱、そして最後は、西国第三番粉河寺逸木盛俊住職による萬歳三唱、発起人多田潤平氏(元舞鶴税務署長)の閉会の辞を以って終了、出席者は百四十人余を数えて盛会裡に終了させていただきました。
 御出席の方々、発起人、事務局の方々、誠にありがとうございました。


松尾寺名誉住職米寿祝賀会席上での御挨拶
 失礼いたします。本日は、私の米寿祝ということで、市長さん、海上自衛隊総監、学会の碩学(せきがく)、府振興局長等々お歴々の方々や、西は北九州、東は東京から、更に南は新宮など、遠隔の地より、わざわざ畿北の地、舞鶴にまでお運びいただいてお
りますことを、心より篤く御礼申し上げます。
 当初、この種お申出をいただきました節、いわゆる「家族葬」並みに、二、三十人ぐらいの方にお集りいたゞいて、肩肘はら
ずにワイワイガヤガヤでお願いしたい旨、申し出たのでありますが、容れていたゞけず、本日の仕儀に至りました。
 ともあれ、こゝに至るまで、格別の御配慮をたまわり、御尽力いただきました、発起人の皆様、事務方の皆様方に、心より厚く御礼申し上げる次第であります。
 さて、米寿と申しましても、馬齢を加えたのみ、或いは、老いて恥多しとも申します。
 私は正しくその該当者で、古来、坊さんと南瓜はひねた方がよい、と申しますが、ひねもひねたり八十八。併し味わいの方は一向に相応いたしません。
 つきましては、高齢に及んでの我が宗教的境位というものを語ることを余り持ち合わせぬ身でありますので、最近感動した一つの事柄を申し述べて、その責めを塞がせていただきたいと存じます 。
 それは、今日より恰度一ケ月前、十月三十日の事であります。
 東京の、山縣有朋(ありとも)のかつての別荘、椿山荘で、旧陸軍予科士官学校六十一期生同期生会が開かれたのであります。年に一度のこの会も本年を以て終りとする、ということなので私も出席致しました。
 何も縁のない遠い事柄ではありません。今日もこの場に二人の同期生が出席しておられます。掛川市の鈴木さん、高浜町の石塚さんです。御紹介します。一寸お立ち下さい…。
 ところで陸士出身者が発刊しております月刊誌「偕行」があります。かつて、その中に大要次の話が載せられていたのでありま
す。
 時に、昭和十一年二月二十六日、我が国を震撼させる、俗に云う二・二六事件が勃発致しました。
 実は、私、Y(実名を秘す)の兄は、この事件に連座して、時の教育総監、渡辺錠太郎陸軍大将を射殺した。そのため銃殺刑に
処せられたが、日を経て昭和六十一年七月十二日、事件に関連した自死を含む二十二名が祀られている東京麻生の賢崇寺で、その五十回忌法要が営まれ、私は遺族としてその席に連なった。
 ところが、その場に焼香に参列されたのが、渡辺和子先生(岡山ノートルダム清心女子大学々長)であった。
 先生は渡辺大将の令嬢であられ、然も当時僅かに九才。我が目前の至近距離で御父君の惨劇を眼の当りにする、という言語を絶する衝撃をうけられた身の上である。そのトラウマやいかに、その怨念やいかばかりか、と思われるのである。
 にも拘らず、恩讐を超えてのこの挙に、私は号泣し、爾今、先生を師と仰ぎ、キリスト教の洗礼を受けることになった。
 というのであります。このYなる人は何方ならん、とその後久しく心に秘めておりました。
 ところが、十数年前、今日も御出席いたゞいております御当地の桂林寺の御住職の肝入りで当地市民会館で盛大な宗教懇話会の行事が催され、たまたまそこにゲストとしてお出でになったのが、前記渡辺和子先生であり初対面の先生に一連の事情を申し述べ、例の「偕行」の記事の主人公の名前を訂させていたゞいたところ、葉山の安田善三郎氏であることを知ったのでした。早速、事の次第を安田氏に伝え、その記事に触れた時の感動を申し伝えたものでした。
 氏からは返事と共に、令兄、安田優砲兵少尉の一代記を、その生い立ち、陸士時代の日記、書簡、事件後の公判記録に至るまで巨細(ごさい)に記された、三七〇ページに及ぶ善三郎氏私家版資料を送っていたゞいて、更にその認識を深めることができたのでした。
 爾来、暫らく文通も絶えていたのでありますが、前記同期生会の席上、四百五十人余の出席者の中にその名を見出して、早速その席を探して刺を通じたところ、安田氏はガバとばかりに私を抱きしめにきたのであります。私も思わず知らず彼の体を抱きしめておりました。期せずして米寿の二人が抱擁し合った所以のものは何であったのでしょうか。
 疑いもなく、幼くして父君の血塗られた惨劇を目にした渡辺先生が、その当事者の焼香に参列されるという、限りなく尊いその人間性への畏敬と渇仰の思いの感動を、安田氏と私は抱きしめ合っていたのであります。
 以上、僅か一月前に体験した感動の次第を申し述べさせていただきました。

 ところで、「枕草子」には、遠くて近いもの≠ニして三つの事柄を挙げております。
 先ずその一は舟旅です。幕末に及んでも、薩摩の篤姫は、江戸城輿入れのためには、舟旅を利用せねばなりませんでした。近世に至るまで、舟旅はさしづめジェット機であります。その次に遠くて近いものは、男女の仲。云うにや及ぶというところでありましょう。
 そして、三つ目は、あの世、とあります。
  六文銭 人の一番長い旅
 これは、当地の或るお寺の庭で目にした石碑に記された川柳です。本当に、六文銭払っての舟旅こそ、限りもなく長い、長い、道行きでありましょう。 
 そして、今や、私にとっては、あの世は遠くて‥‥ではなく、近くて近いものとなりました。残された日々を大切にせねば、と心得る次第であります。
 ところで、話題は変りますが、私は家内と共に、週末の新聞のクロスワード・パズルに取り組んでいます。或る日のパズルに「カハイ」という見馴れぬ語彙に出会いました。辞書に当ってみますと、「佳配」とあります。さしづめ、「ベターハーフ」の漢字版でありましょう。
 顧みて、あの草深い山寺で、「これがまあ 終(つい)の棲家(すみか)か 雪五尺」の雪深い山家で、愚痴も云わずに六十年、起居を共にして私を支え、世話をしてくれた、我が「佳配」に対して、おゝけなくも、この場を借りて一言謝意を表したい、と存じます。
 さて、最後になりましたが、白玉の歯にしみる秋の夜は、と若山牧水をもち出すまでもなく、今やお酒の最もおいしい季節であります。我々飲んべえ≠ノはたまらない時季で、それで十一月のことを、英語で「飲んべえバー」というのだそうであります。
 その折角のノーベンバーも、今日を含めてあと二日、どうか皆さん、それこそ米寿のことなど忘れるほどに、「佳配」ならぬ「佳盃」を思うさま傾けていたゞくことをお願い致しまして、一言御礼の言葉といたします。
 本日は、まことにありがとうございました。

註、「ニ・ニ六事件」
 前記、 安田善三郎氏著「安田優資料」には、次の記述があります。内容を抜萃します。
 天草出身の安田優氏は、任官後、その任地満州の熱河省錦州にあって、宴席に出た酌婦の一人が天草の出であることを偶然知ります。時の月給の大半を与えると共に、当地を逸早く離れて故郷に帰ることを勸め、砲工学校入校のため帰国した後も送金を続けたといいます。時に、他の将校たちの中にも、東北出身の実家の貧しい兵に、その給与を頒ち与えていた人がいた、と
いうことであります。
 貧富の差の大きさは、国の構造の矛盾への慷慨となり、最後は彼等を事件に駆り立てたのであります。元より所謂叛乱軍の首謀者達に私利私欲があったわけではありません。むしろ、一時期彼等を擁護する将軍さえいたのでありますが、結果的には、裏切られ、挙句は、その後の暗い昭和史への緒(いとぐち)となったことも否めません。


 
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N H K 教育T V「心の時代」の心空前住の聞き手であった有本忠雄元アナウンサー、思い出を話される


琵琶湖周航歌大合唱



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