阿弥陀仏との出逢い

 顧みて私が徒歩巡礼を思い立ったのは、還暦の年でありました。八十才まで、年に四、五回歩く巡礼の旅を続けて参りました。
 その目論見の一つは、今昔物語の讃岐の国の五位の話に触発されてのことであります。
 名うての極悪人五位は、或る日のこと、講師(こうじ)の「西方に阿弥陀仏あり」の話を聞くや、矢庭に剃髪、あっと驚く家人を尻目に、首から吊り鉦(がね)下げて、「阿弥陀仏、オーイ、オーイ」と大声挙げて鉦を叩きながら、西方目指してまっしぐら、山の高きをいとわず、川の深きを避けることなく、西へ西へと歩み続けたのでありました。
 最後に辿りついた海辺の一本の樹に上った五位は、なおも海の彼方めがけて如来を喚びつゞ け、遂に息絶えたのでありますが、その口からは一本の蓮華が生えていたという。
  彼 の所行を知って、その場を訪れた僧侶は、泣く泣くその蓮華を手折って持ち帰ったといゝま す。
 空 海の「十住心」に説く異生羝羊(いしょうていよう )心(獣の心)、親鸞の「歎異抄」にある、業縁によっては、人をも殺す罪業の身、を地でいっ た五位の回(え)心は、如何にしても たらされたのでありましょう。
 ともあれ、西方めざして切に歩みつづける姿は、目指すべき指標となりました。煩悩にむしばまれた心の刃を、遠路苦行の砥石で研(みが)くこと。右足は鍬、左足は鋤とみなして、歩む行を通 じて心田を耕すこと。或いは、禅にいう一寸坐れば一寸の仏、二寸坐れば二寸の仏の言葉通 り、 足をのみと見做して、一歩歩めば一歩の仏、二歩歩めば二歩の仏を心の中に彫り刻んでゆくこと、等々。
 こうした思いで、西国札所五周、四国、小豆島、中仙道それぞれを歩んで七千粁となりまし た。
 近年眼疾を宿して以降、山坂の下り道の歩みが不確定になり、「靜坐」を専修することになって、六年目を迎えています。靜坐と申しましても、岡田式、藤田霊斉の調和道、白隠の夜船閑話等々により、夫々のエッセンスと思われるものを我流に換えて試みております。そして当地では、毎月一回集会をもち、五十分、三十分、二十分の三坐を行 ずることにしています。
 ところで当の「夜船閑話」に 説く内観は、
 我が此の気海丹田、腰脚足心、総に是れ我が本来の面目、 面目何の鼻孔(びく)かある
 我が此の気海丹田、総に是れ我が唯心の浄士、浄土何の荘厳 かある
 我 が此の気海丹田、総に是れ我が己(こ)身の弥陀、弥陀何の法をか説く
 とあり、気海丹田こそは、我 が面目、浄土、阿弥陀仏である、 と説きこれを繰り返し念じて息を凝らせば萬病治癒せざることなし、と白隠は喝破するのであります。
 呼吸法については、行脚の場合にも相応の工夫をこらしてきましたが、それは、足心、肛門、丹田、喉、百里(頭頂)を以て五輪になぞらえ、足心より夫々を通 過点と意識して頭頂にかけて息を吸い上げ、次に丹田にかけて息を吐く、但し、吐くことを主に、吸うことは従として、呼主吸従を心がけます。
 元より吐くにつけ、吸うにつけ、その主眼となるものは、白隠の説く気海丹田であり、これは健康法としても勝れたもので、先に触れた如くこれを行じ て、諸症癒えざる場合は「老僧が頭を切りもち去れ」とまで述 べております。
 このように、「己身の弥陀」 との出会いを身中に期するのが 「靜坐」に他なりません。
 たゞ、心すべきは、歩む、坐る、呼吸等、全てこれらを可能にしてくれるのは大いなるものゝ働き、即ち「恩力」であると、夢窓国師は述べています。
 たとえば、心臓の鼓動は労せずして一日十萬回、血流は八千リットル、呼吸は二萬回、これらは元より自力で可能なことではありません。
 夢窓国師は、世俗の神通力ではなくこの「恩力」を、また世間の求める光明ではなく、東西、黒白(善悪)をわきまえる心中の「霊光」をこそ、自覚せ よと戒めるのであります。
 先に触れた五位についてみても、元来悪逆非道の彼にして、やはりこうした恩力、霊光がひとしなみに与えられていて、彼 自身もまた救われる身であることを、講師(こうじ)の教えを通じて知り、 回心したものと思われます。
 ひたすら西に向けて歩んだ彼との同行二人は阿弥陀仏であり、念仏の果 てに彼が如来と一体になったことは、口中に咲いた一葉の蓮華に象徴されている と申せましょう。
 さればこそ、「世の末なるとも、実(まこと)の心をおこせば、かく貴きこともあるなりけり」とこの話は結ばれるのであります。
  このひたすらな弥陀仏との行脚念仏の果てにこそ、安心の芽生えを求めたいと思うものであります。

 南無阿弥陀仏

 

 




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