寿命と今日のいのち

 若者(W)「昔流にいうと、新年を迎えてまた一つ年をとられましたね。えゝ?八十八才ですって。 とてもそんな年令にはみえません。せいぜい八十に手
が届くか、といったぐらい」

 老人(R)「ありがとう。若い頃、中年の人からT五十過ぎたら、若 く見られると、心底嬉しいもんですUといった人があったが、その気持ちがよく分りますよ」

 W「今やアンチ・エージングが 大流行り。さしづめ、T反老UT脱 老UT卒老Uといったところですか。 九十才近い人のフル・マラソン出場なんかは全く驚きです。」

 R「ゴルフの年齢に均しいスコアなんてのもありますね。森光子 の舞台でのトンボ返り、それも三回試技の上の成功なんてのもありましたね。」

 W「全くです。どれにも負けないよう、いつまでも若々しくお願いします。」

 R「けれどもね。迎春といっても、冥土への一里塚、ってことは避けるべくもない事実でね。T反・ 脱・卒U死というわけにはいきません。生あれば必ず死あり、十 才若く見られたって、何のことはない、死ぬ ことには変りありません」

 W「えゝ、寿命ってものがありますものね。」

 R「そう。寿命があります。 けれども、寿命についての考え方、見方に次のような話があります。
 今年百二才を迎えられる日野原重明先生はその著書『いのちの使いかた』で次のように述べておら れます。
 生きるということは、寿命という大きな器を、精いっぱい生きて いる一瞬一瞬を満たしていくこと。 僕はそんなふうに考えています。 だから、寿命は最初から決められていて、減っていくものという考えかたは、おおいなる誤解なのです。
 僕はTいのちに年を加えるのではなく、今の年令にいのちを注ぐようにしなさいUということばが好きです
 Not add age to the life
 But add life to the age
 Tいのち(life)に年(age)を 加えるUというのは、寿命に年令を足して延ばしていくこと、つまり長生きすることです。
 と説明されています。」

 W 「なるほど、そうした話を聞 きますと、僕は中村天風さんが引 用していた次のような言葉が思い 出されます。
 T馬車を馬の前に置けUっていうのですが、さしづめ馬(寿命)が 馬車(いのち)を引っ張るのではなく、いのち(馬車)こそ寿命(馬) を引いてゆけ、その日その日のいの ちの充実を計ることが大切だというのでしょう。
 こゝに云われているT馬車Uこそ 今日たゞいまのいのちに他なりませ ん」

 R 「真言宗の僧であり、白隠禅師のT夜船閑話(やせんかんな)U との出逢いから、山中十年の修行の結果、T調和道呼吸法Uを普及させた藤田霊斉師には、次のような二つの和歌があります
 昨日すぎ明日はまだ来ず
    今日ひと日 このひと日こそ
   おのがいのちぞ
   昨日は過ぎ 明日は未来で
    現在の この一日を
     おろそかにすな
 というのです。作家の井上靖の小説に『昨日と明日の間』という題目のものがあります。『今日』で よいはずのこの題を、あえてこのようにした理由というのは、とかく過去への後悔、明日への希望の間 に、肝腎の今日が、我々の意識の中で埋没しがちなことへの戒めだと聞いたことがありますが、今日只今の命こそ深めたいものです。 」

 W 「そのためには、どんなてだてがあるのでしょう」

 R 「趣味に没頭するのもよし、 読書三昧も悪くないでしょう。ノー ベル賞受賞の山中教授のように研究の合間を縫ってのマラソンなど、全く今日のいのちの躍動といえましょう。
 たゞ、今の過剰なマスメディアにふり廻されて、散漫な情報享受 は感心しませんね。テレビ浸り、 メール三昧などは如何なものか。
 断食療法といったものがあるように、注意散漫を招く情報過多 の世相の中での情報断食、即ち、瞑想や靜坐といったことをお勧めしたいと思います。」

 W「そうした処に、心身の本来の活力が生まれてくる。即ち今のいのちの感得がある、ということですか。早速、お勤めに従って靜坐を心がけることに致します。」




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