一日五分からのお勤め

 標記は、仏教月刊誌「大法論」 九月号の特集記事のもので、冒頭、大要次のような話を私が執筆させていだきました。

 五分という時間で思いついたことは、山折哲雄氏が、若い頃永平寺で研修会があり、終了に臨んで指導僧が
 「皆さんは、しんどい坐禅はもう真っ平、二度とこんな所へは来るまい、と思っているに違いないが、毎日五分でいいから坐ることを続 けてもらいたい。必ず得るものがある」
 と云われて、爾後、これを実行 してこられた、という話であります。
 とかく、スピード、効率が優先して、忙しさに文字通り忙殺されている日常では、たった五分の時間の確保も難しく感ぜられます。これは、ドイツのミヒャエル・エンデの描く「時間どろぼう」の話ですが、時間銀行員なる者が表れ出でて、一日二時間を倹約して預けてもらえば、膨大な利子がつく。五年ご とで倍になって二十年間では、二六九億一〇七二秒になる。と「時」を「秒」に換えて言葉巧みに誘いかけ、その言葉にのせられて時間を預けたところ、途端に多忙に明け暮れることになり、索漠たる日々を送らねばなくなる、という寓話があります。
 いうまでもなく、多額の利子に目が眩み、虎の子の金子を奪われる金融話になぞらえての噺でありますが、わずか「五分間」ぐらいは泥棒に奪われてはなりますまい。
 当地の友人Tさん宅は浄土真宗で、幼時朝食前に毎日「正真偈」を誦まされたと申します。食膳を前に、生唾(なまつば)のんで親に合わせて読経する幼児の姿は、ほほえましくも尊いものがあります。ここには、天地の恵みをいただいて食事のできる感謝と知足の念いが培われる場があります。現代では稀になった尊い慣習でありましょう。
 今や、新聞、TV、週刊誌、メール等々、耳から入るもの、目にとまるものは社会に充満しています。 それらは、とかく色濃い味付けがほどこされていて、耳目が奪われがちです。そうした中、暫しの判断中止、心の閑けさこそ必要であります。
 私自身が、朝の読経の他に平素心がけているのは、岡田虎二郎創始の靜坐であります。日本式坐禅ともいうべきもので、両足を重ねて坐り、丹田呼吸につとめます。
 実践者には近代では、柳田誠二郎氏(元日銀副総代、初代日航社長)が百才の天寿を全うされまし た。現代ではその後継者として新木北陸電力会長がおられ、靜坐の会場で柳田氏からの葉書を見せてもらったことがあります。また、小松大阪府立大名誉教授は、百二才になって、なおかくしゃくとして指導に当っておられます。何れも学生時代から熱心に靜坐をしてこ られました。
 これらの方々は、毎日三十分、 一時間と坐っておられますが、さて、新参者の私などはたとえ五分でもずいぶん長く感ぜられ、余り長続 きいたしません。但、多くの人と坐ると、そこに勵ましの心の通い合いが生まれるのか、自然と長時間に堪えることができますので、当地で、一面 記載通りの「靜坐の会」 を始めることにいたしました。靜かに瞑目して坐す、という一つの行 為が習慣を産み、その習慣は一つの性格を形造ってゆくことを念じています。日々の読経にあっても、たかが五分、されど五分。多用喧騒 のただ中での五分間の貴重な積み重ねの重さを大切にしたものであ ります。



靜坐会開会での荻野義雄先生(91 才・靜坐歴70年) の御挨拶


←前へ