本居宣長に梵語を教えた等空上人

 松尾寺近世の住職といえば、やはり「等空」(一七四五〜一 八一六)を以て最たるものとせねばなりません。その学識は、本居宣長(一七三〇〜一八〇 一)に、梵字悉曇< ぼんじしったん>を教え、宣長自身その著を著わすに臨んで、 関係の箇所について一々校正をうけたといいます。更にはその戒法をも受け、等空から「本居居士」の法名を授かっています。
 外国語の音韻を学ぶことが、皇国の字音を正しく知るために必要である、と考えた宣長の師が即ち等空であった、ということは特筆されるべきでありまし ょう。
 さて、等空は丹後国加佐郡市場(現在の舞鶴市字市場)に延享二年(一七四五)に生れ、七才で松尾寺で出家し、十六才で高野山に登って修学すること十 年、経論を講じて「声誉一時に上り、満山の学侶の推すところとなる。」ということをみてもその非凡の才能が伺えるのであります。安永八年(一七七九) 松尾寺住職となりますが、学徒の追隨してその教えを乞うもの多く、上人自らも常に観法修禅を怠りなくつとめたので、時の世人は今弘法、今釈迦とあがめ ました。更には大覚寺、覚深法親王を始め、御室や醍醐両門主の厚遇をうけて、三山の法宝蔵に入ることを許され、手ずから経本を写 しとって、今も当寺の 宝蔵の書庫を埋めています。特に、松尾寺、高野山真別 処、芸州(福山)福王寺を以て有部律<うぶりつ>の三山と位置づけると共に、阿州(阿波)、雲州(出雲)丹州 (丹波、丹後)の各藩主の帰依も篤く、特に出雲の国主には、等空を招いて受戒をうけた返礼として、仏舎利が寄附され、等空自ら建立の境内の宝篋印塔にこれを収めています。
 天明八年(一七九八)、五十 四才にして寺を辞し、若狭の浄菩堤心庵(福井県、高浜町、日 引在、正楽寺)に隠棲することとなりましたが、その後も需めに応じて、比叡山、青蓮院、安井門跡へと出講し、文化十三年 (一八一六)江戸の弥勒寺で大日経を講じて入寂、七十二才でありました。

 たまたま当山の古文書の中から、「月牌證文」と表書きされたものが出てきました。
 月牌證文
 伝燈大阿闍梨比丘等空上人
 右為聖霊菩堤方金弐両所納之
 実正事也
 然上者末代当院道場毎月香華
 飯湯之廻向 供養無怠慢可修
 行者也 仍而證文如件
    文化十三年十月廿二日
     江戸本所弍ッ目
      弥勒寺地中
       龍光院 印
 松尾寺様
    御弟子中

右ハ聖霊菩題ノ為、方ニ金ニ両、之ヲ納ムル所実ニ正事也。 然レバ上者(聖霊ニ対シテ)末代当院道場ニテ毎月香華飯湯ノ廻向供養、怠慢ナク修行スベキ モノ也。仍テ證文件ノ如シ。

 もとより当時の事とて遺体を遠く江戸より運べず、竜光院で葬られたものと思われます。現在、墓石は、松尾寺、正楽寺何れにも残されています。
 以上が大体の略歴でありま すが、後の住職本空は、その徳を次の如く称讃しております。
 吾が尊者(等空)は葛城の 慈雲公(註)と友として善し。雲公当寺に詣り、禅坐に相い伴うこと屡々なり。又、書を以て互いに慰問す。時に学徒此の両哲を称して仏天の日月と云う。又顕家の雲公(註)、 密家の空公という。当時尊者旅行の時、途上に相逢う者、(略)皆合掌敬拝せざるはなし。 その徳行の人に入ること深きことを知るべし。
 と記して、その後に前記本居宣長のことが記され、「諸々の門中居士の巨擘<きょへき>なり(沢山いた門人の中での中んずく大人物であった)」としています。
 以て、その学徳の程を知ることができるでありましょう。 その多くの著書は、密教学の古典となっています。

 (註)慈雲公 慈雲尊者で、 享保三年(一七一八)、大阪中之島、高松藩蔵屋敷に生れた が、堂島川、玉江橋の南側にその生誕記念碑がある。一方、北側にあるのは豊前中津藩蔵屋敷に生れた福沢諭吉の生誕記念碑である。悉曇学に勝れ、また皇室にも「十善戒」を説く機会をもった。平成十四年、その二百回忌に因んで講演会や遺書展などが催された。




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